《抱朴子外篇》
抱朴子曰:“尽节无隐者, 可为也. 若夫使言必纳而身必安者, 须时. 时之否也. 夫奸凶之徒妒所不逮, 拥上抑下, 恶直丑正, 忧畏公方之弹击邪枉, 是以务除胜己以纾其诛. 明主不世而出, 庸君迷於皂白, 既不能受用忠益, 或乃宣泄至言. 於是弘恭石显之徒, 饰巧辞以构象似, 假至公以售私奸. 令献长生之术者, 反获立死之罪;进安上之计者, 旋受危身之祸. 故曰:非言之难也, 谈之时难也.夫以贤说圣, 犹未必即受, 故伊尹干汤, 至於七十也. 以智告愚, 则必不入, 故文谏纣, 终不纳也. 言不见信, 犹之可也. 若乃李斯之诛韩非, 庞涓之刖孙膑, 上官之毁屈平, 袁盎之中晁错, 不可胜载也. 为臣不易, 岂一途也哉! 盖往而不反者, 所以功在身後;而藏器俟时者, 所以百无一遇. 高勋之臣旷代而一有;陷冰之徒, 委积乎史策. 悲夫, 时之难遇也, 如此其甚哉! 由兹以言, 吾知渭滨吕尚之俦, 岩间傅说之属, 怀其王佐之器, 抱其邈世之材, 秉竿拥筑, 老死於庸儿之伍, 而遂不遭文王高宗者, 必不訾矣. ”